「悪気はないんだ」よ…?

あまり問題という言葉が好きではない昨今(私が)、日々思っていることがある。

「あの人は悪気はないんだよ〜」というフレーズだ。

いくつかのシチュエーションが考えられるが、まとめると「あなたを故意的に傷つけようとしてしたわけじゃないんだよ」というものだ。

私はこの事に常に疑問を感じていた。

「悪気はないんだよ」で説得されている人は傷ついていたりするわけだ。

そして悪気がないという。これは人間関係を営んでいく上で、結構深刻な事態であると常々考えている。


子どもに厳しい大人たち

「悪気はないんだよ」…

でも、傷つけようとしているわけではないから、こらえてくれ。

そういう免罪符になっているわけだが、ちょっと大人さんあまえすぎなんでねぇの。

だって人が嫌がる事に気付けていないわけだから。

例えばいじめの話を見てみよう。

様々なケースがあるわけだから、もちろん一部をかいつまむわけだが。

その一部のいじめに、「いじめてるつもりなどなかった!」というのがある。

悪気があるわけではないというアピールである。

もちろん、言い訳として使われる言い方なので、それを証明などできない。だからいじめの定義の話などにもなってくる。今回は棚の上にあげ、この話は別の機会に。

「相手がいじめだと感じたら、いじめだ」というは、現在少々暴論となりつつあるが、今回はこの法則を適用させよう。

自分は楽しくてやっちゃったけど、ちょっといじるのがエスカレートしちゃった。先生呼び出されてどうやらこれはいじめらしいということに気づく、そんなパティキュラーなシチェーション。

しかしいじめの非が叫ばれる昨今、哀れな事に子どもたちの世界では、「悪気がなかった」は通用しないのだ、大人はいいのに。


故意的であったほうがマシ!?

故意的というのはもちろんワザとだ。わかっててやっている。

確かに腹立たしさも覚えるだろう。ワザと嫌な事されたりするわけだから。

だが、考えてみてほしい。

頭では悪いってわかってやっている。

悪い事がわかっているという事は、どこかで改善のタイミングを見つけられる可能性がある。

これはわかっていない事と比べると、天と地ほどの差があることになる。


ありふれた対応の中に自分を知るヒントがあることも

もちろん程度がそれぞれある事なので、全てをこれでは語れない事は理解している。

しかしながら、「悪気はないんだ」で必ずしも納得する必要はないということだ。

あなたが思ったことを伝えることはできる。

私自身、もちろん悪気なく傷つけたことがあるはずだ。もちろんそのこと全てに気づけるわけではない。

そしてその日は突然やってくる。

その時に私が、あなたが、悪気なくやったことが相手を傷つけてしまったと気づいたら。

できるかどうかはおいておいて、謙虚に努力しよう。

そういう気持ちでいるだけでも、きっとあなたの人生は違うものになる。

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