やらない善よりやる偽善

地震や地すべりなどの有事、災害のあと、ボランティア活動や奉仕活動の運動が大きくなるにつれ上がる声の一つに「偽善」というものがある。

指摘の内容は「ボランティアをやるのになぜわざわざ表明する必要がある?」「いいことしているアピールだ」などという方向性だろうか。

とにかく何かアクションを起こしている人(特に有名人)が否定されているような印象だ。

まず、客観的に聞いてて、タイミングにもよるが言われる方は大変しんどいと思う。

自分が起こした行動を「偽善」だと言われるのは、自分は本当はどう思っているかなんて説明することはできないので、なにを言っても言い訳感が増す。その点をついている。

それに対する返しとして有名なものが「やらない善よりやる偽善」というわけだ。

なぜこのような展開になっていくのか考えていくと、少し奥が深い内容であることが判明し、考察を挟んでみようと思うに至った。


論破したい人が続出…って、え?

ようやく見つかった「偽善」という声への対処法。「やらない善よりやる偽善」が浸透していくと、それを論破したいという声が聞こえるようになった。

「やらない善ってそもそもなに?」「やらないのが善ならやらなくていいじゃん」「「やらない善よりやる偽善」は異常」など。

参考

「やらない善よりやる偽善」の異常性について

http://nippon-senmon.tripod.com/column/zen_gizen.html

やらない善よりやる偽善←論破したい

http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4602083.html

やらない善よりやる偽善って言葉吐く奴大嫌いだ。私は困ってる他人がいても見てみぬふりしてた

http://kosodatech.blog133.fc2.com/blog-entry-14144.html

なるほどと思える内容もあった。さすがに異常だとは思わなかったが。

しかし、よくよく読んでいると、どうも自分が考えているシチュエーションとは違うように感じた。

複数の状況が一緒くたにされて乱暴に扱われている感じ。


脅迫的な使い方ではね…

参考にしたURLにこんな一コマがあった。


私は困ってる他人がいても見てみぬふりしてた小柄なうえ足の関節が悪いから、何かあった時に走って逃げたりできないだから知らない人は困ってても話しかけたりしなかったしそれが親の教えでもあった

中略

大学内でも何か助けを求められても「知りません」「わかりません」「他をあたってください」とすぐにつっぱねてた

でも周りの子たちから冷たいとか酷いと言われた、すっごい言われた「善意は誰かから強要されるものじゃなくて、やりたい人がするものだよ」と言ったら「やらない善よりやる偽善」といつも反論された


この方は女性のようだ。

この後の文には、この後起きるトラブルが書いてあったのだが、今回はここまでの紹介とさせてもらう。

ここでの「やらない善よりやる偽善」は、普段聞いているものとはすこし毛色が違った。

最も大きな違いは、この言葉を「かけられる」ということだ。

行動を起こした人物が言われるのではなく、行動を促す意味で、指示的な意味合いを込めて使用されている。

これでは、「やらない善よりやる偽善」が嫌われてしまうのも無理のない話。


結論はただの理解不足

「やらない善よりやる偽善」

この言葉は言われる方のポジションによって意味合いが全く異なる。

そして、どちらもその背景の理解がされていないように感じる。

この言葉によって大変苦しくなる方もいらっしゃることだろう。

人によって、置かれている状況など全く違うのに。

人は自分と全く同じフィジカル、メンタル、過去などの状況だと当たり前に前提して話を進める。

もちろんすべてを知ることなど不可能だし、されても迷惑だ。

だからといって、わかろうとしないのは違う。

ケースA

Aさん: ボランティアに行く!

あなた:某批判 ←不要

Aさん:「やらない善よりやる偽善」


ケースB

Bさん: ヘルプしない

あなた:「やらない善よりやる偽善」だよ ←不要

なので、なにかを言わずにいられない衝動に駆られたら、何か心にむず痒いものを感じたら、もっと直線的にいうと相手を批判したくなったら(批判を批判だと認識している人が少ない)「何か一言モノ申す」って気持ちになったら、一度思いとどまるべきだ。

そして思い知るべきだ。

大体の相手は、それを必要としていないことを。


言われる方も一考の余地

ケースBの場合は、言われる方も辛いことではあるが、某かの変革を求められている可能性がある(耳が痛いことは、変革のチャンスかも)

先の紹介した女性の話で言うと、やったほうが人生的にいいのか、それとも、もっと言い方を考えるか、きちんと伝えるすべを身につけるべきなのか。

どちらにせよ、自分がやりたくないことを、いやいややる必要などない。


本来「やらない善よりやる偽善」などいらない

有名人がボランティアなどに行って、「やらない善よりやる偽善」と言いたくなるケースは、とても残念な状況だとしか言えない。

最も上がる批判の声に「売名行為だ!」というのがあるが、それの何がいけないのだろうか。

「災害地に素人は不要」ともいわれたりするが、必要とされる地区に配属されるのだから、不要ということはない。

そして、人に触れて立ち直っていく人がいることも無視できない。

結果として名を売る事になっても、「ボランティアやってるから」いいんじゃないの。なんという了見の狭さだろう。

心配しないでも今の日本ではボランティアで名は売れない。

このタイプの批判人間は自分は安全なところから言っていると思っているので、なにを言っても聞かない。

きまりが悪くなれば逃げればいい。つまり同じ土俵に立っていない人間の相手との議論など、不毛だ。

そういった意味でも、本来はそんなこと言わないでいいのだ。

心に熱く上がってきた「居ても立ってもいられない気持ち」に突き動かされた経験は私にもある。


今考えてみよう

なので、提唱できる事としては、「ボランティアに対する考え方をみんなで考え直そう」で良いのではないか。

ある国では、ボランティアや寄付は崇高なこととして受け止められている。

ボランティアで売名してもいいんじゃない…?っていう風潮に少しだけ私たちはなれないものだろうか。

動こうとしている人の足を引っ張ること。これは私たちの悪いクセだ。

※もちろんこれで全ての可能性を拾ったわけではないことはご承知置き願いたい


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