暴力には暴力とそうでないものが存在する
まずはこの動画から
https://youtu.be/VRlmCf1Kj2o
先日(と言っても少し前だが)アメリカメリーランド州ボルチモアにて、大規模な暴動が起こった。
差別などに対するムーブメントであるが、怪我人でるし、器物壊しまくりで、非常事態宣言。その中にどう良くなろうと言うのかというところは気になるのだが、警察でも手に負えない(時がある)この暴動にて、一人の女性が大変有名になった。
パワフルママがバカスカ息子を罵りながら殴って叩いてとやっている。
そこにはなぜか、心を打たれるものがある。
なぜ、暴力には「暴力」と「そうでないもの」2つに分けたかは、「一般には暴力に分類されるけど、これは暴力っていうにはおかしすぎるよね」があると感じていた。「そうでないもの」の名前があると便利だな。
体罰はいけない
「体罰はいけない」というのが日本での常識になりつつある。そのことに異論はない。
以前は親や先生から殴られて育ってきた世代から反発もあったが、最近は徐々に声が聞こえなくなってきている。
体罰はいけない。
それでも何かの圧力によって更生を図る場合は、「体罰」ではなくて「懲戒」を使うそうだ。
体罰は一掃し懲戒をしろという文部科学省からのお達しである。
ある程度文部科学省にて「懲戒」の定義が決まっているようだ。
でも前述の「そうでないもの」は懲戒の中には存在しない。
暴力について
暴力とは「言うことを聞かないからと殴る」「力でねじ伏せる」など、自分の怒りや憎しみ、イライラ、悔しさなどが行動源で、相手を怪我させる危険を伴い恐怖やトラウマなどを利用してコントロールする方法だと定義しよう。
そこには相手への憂慮はない。
自分の我を通すことが目的、後にも先にも相手が体や心が傷つくことに関しての懸念など無い場合としようか。
そう書いていて、実際このパワフルママに照らし合わせると、どうも同じような結論にたどり着いてしまう。
どう考えても熱くなった気持ちは、自分の怒りなどだ。
「なにをやっているんだこのバカ息子が!」などスラングというか罵りもふんだんに絡めながら攻め立てている。
相手への憂慮はあるのだろう。この点においては、「暴力」と「そうではないもの」の大きな違いの一つとしてカウントできそうだ。
子どもたちの友達との殴り合いのケンカはノンバーバルコミュニケーションだ
結論から言うと、子どもたちは、腹がたって殴りあうのは、長期的目線から見ればOKというのが私の意見だ。
なぜなら、まだ小さければ、怪我をさせることは少ないし、怪我をしても軽微であることが多い。
ちなみに子どもとは、この場合高校生は適応しない。特に男子高校生などは相手を死に至らしめる力を持っているためである。中学生も怪しいけど、グレーゾーンとしよう。
子どもたちは殴った相手、大人の対応などで、事の重大さを知ることになる。
何事もそうだが、全てのことに適応できる定規杓子など存在しない。
全ての人間のやり取りはナマモノだ。だから、国や地域までならまだしも、個人や家庭間の絡み全てに暴力はだめだ、というのは少々乱暴だと感じる。
それを理解するのは、それを学んでからだ。
コミュニケーションの一種類の可能性
もちろん、暴力を是としてはいないことはご理解いただきたい。
とてもじゃないが、暴力を肯定されることなどがあってはならない。それだけは断言しておく。
しかしながら、相手への憂慮がある場合は、最後の最後、どん詰まりまで行ってしまってなすすべがない、もしくはそこまでは無いにしても、これでしか伝わらないなどと判断した場合は、その限りではない場合があると仮定しておく。
何をしても結果などやってみないとわからないのだから、それが良いと信じたのならば、その衝動を抑える必要はない。
そして上記の憂慮があるかどうかは、他者から判断するのは結構難しい。怒りの本人も、そんな冷静に考えていることなどはできないかもしれない。
それは心からの欲求なのだ。相手がどうこうではない。こうしたい!これだけは伝えたい!という。
これは言い換えればただのエゴなのだ。とても優しいエゴだ。
だが、そういう姿勢だからこそ、伝わるものがある。
先ほどの女性の行動、これは暴力だろうか。一度考えてみると良いかもしれない。
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