LBGTに詳しくない人目線から一言

最近ひょんなことからLBGTという単語に遭遇した。そのことを妻に話したら「今頃?」的なことを言われたが、ホントはじめて知った。

(結構前からある言葉だそうだが)いろいろな言葉が生まれているものだ。

それで、個人的見解を言っておくと、LBGTに反対する側ではないことに気づいた。なぜこんなに回りくどい言い方になるかというと、私も妻も家族も友人知人含め、いわゆるLBGTに属する人が周りに居ないから。実際に会った時どんな気持ちになるか想像できない部分があると考えいてる。

そのLBGTがいない環境下で想像力を膨らまして考えた所、反対ではないと。




反対意見について

反対意見を調べるとこのようなことが言われていた

・宗教的(聖書などに書いてあるからダメなんだといったやつ)

・子どもに悪影響だ

・少子化

・病気が蔓延する(性的接触の方法が限定的だから)

・そもそも理解できない

それぞれの指摘に対して、賛成側も様々な返答を持っているようだ。調べた限りでも良いディベート風景になっているサイトも見つけた。

もちろん炎上しているサイトも何倍もの数があるだろう。とてもじゃないが全ては見れない(みたくないし)。

愛憎は炎上しやすいトピックであるがゆえに、慎重に。そういう姿勢が求められていると感じた。

反対意見の全てを考察して行くことは出来ないので、少子化に絞って考える。

「少子化は社会問題」って話があると思うんだけど、少子化って「上の句」みたいなものだと思う。で、それに続く「下の句」のような意図したいメッセージまで洗おう。

私の思いつく限りの「下の句」メッセージは、子どもの人数が減ると、活気がなくなって、将来の労働力が減って、社会保障も立ちゆかなくなって、経済的発展や豊かな生活が送れなくなる。って感じ?

これは「少子化=悪」という図式を受け止めている人が、そう主張する。


幸せの定義の多様化

このLBGTの議論のベースは「幸せの定義とは?」ってこと。

「少子化が問題だ」という背景には「子どもが増えることが当たり前」って人がいると思ってる。(「いいこと」とも言い換え可)

20代以下の世代はピンと来ないかもしれないけど、50代以上の世代は、たくさん姉妹兄弟がいる人は多かった。実際結構いた。

そのなかで育った人たちが、(体験したことのない状況=)少子化に不吉さを感じるのは大変しょうがないことだと思う。


そして今は子どもたちが減って我らは頑張ってたのになんか年金が減りそうだし、社会の先行きが不安定だし、うわーって。

そして人口は増えていた時にとても経済が発展して、少子高齢化社会だと言われるときに経済が停滞したっぽい。

しかしながら、LBGTの話に持ってくるのはちょっと次元というか、レイヤーが違う気がしている。

だって、(あえていうならば)少子化はそんなに悪いことでは無い※と思ってると想像できるから。

(※LBGTすべての人が少子化を軽視しているという意味ではありません、選択するならどちらという話です)


「自分の好きな人と過ごしたい」という選択

好きってのは、、そういうのは理屈じゃない。

例えば映画が好きな人に「なぜ映画が好きなの?」と聞くとする。

それが雑談なら何の問題もないが、映画館の害とか不利益とか、目への悪影響、犯罪を助長する可能性など一部の不都合な面を全面に打ち出されたら、「もーなんなの」てなる。

あなたが好きなものに対して、本気で覆そうってやってきたら正直めんどくさいでしょ。

でも、LBGTに対してはそれをすることを許されていると感じる。

人によってはすごい勢いで迫ってくる、何なら脅しをかけてくる。(ある政治団体を参考にした)

もちろんそんな人は、悪気もないし、良いことをしているつもりだ。

「こうこうこういう不利益をもたらす、社会への害がある」

「問題意識を持たないなんて何事か!」

「問題を解決しないとこの先大変なことになる」

「このままでは、日本は悪くなる」


この世は、問題を発見して、それを解決することが常識(=良いこと)とされている。


しかしながら、この常識が人により苦しみを生む時がある。

常識とは枠組みである。常識に収まっていればラクなときもある。

でも時には「こんなの常識だろ」の一言で、もうなにも言えなくする力を持っており、苦しめてしまうこともある。

だから 「誰かが作った幸せの枠組みの中で生きていく」ことが出来る人にとってはなにもないことでも、できない人にとっては大変苦しいだろう。(これは枠組みの中で生きていることが悪いと行っているわけではない)


この先30年経つとおそらく少子は当たり前になる。(少子化じゃなく少子でいいのかな)

そして、この30年間にはあれが問題だ、これが問題だと言いながら、当たり前のように迎えて、乗り越えて、場合によってくじけて、人間の生活は続いていく。これまでがそうであったように。

少子化じゃなければ、「どうぞどうぞ、同性婚でもなんでもすきにやってくだせー。応援します!」とはならないはず。

理解できない

ここで反対意見の最後の項目の対しても考察を広げたい。

「理解できない」。。これは、理屈じゃない。同等の、前述した言葉を使えば、次元やレイヤーが同じだと感じる。

自分ができないから、やらないから。男は男らしく、女は女らしくみたいな育て方をされ、それが当たり前。親も友人も知人も結婚して、子どもができて、その子がまた結婚して…、同性同士なんて想像がつかない。

そしてテレビや目の前で男性同士、もしくは女性同士で抱き合ってキスしたら、自分に投影したときに、「ウムムっ!!」って悪い印象をもったとしよう。この気持ちは否定しなくていいものだとおもう。

ここまで言っておいてあれだけど、私はいざ目の前にしたら「ウムムっ!」ってなる方だと思う。

私も自分の本当の声を無視することはしない。


でも反対はできない…

しかしながら、その上で、私はいわゆるLBGTに対して反対側にはいない。

共存できると信じているとも言い換えられる。

いわゆる「ウムムっ!」は、これまでの枠組みに囚われた、反応であるような気がしてならないのだ。


そしてそんなことで「いい日本」「いい世界」がなくなるとは思えない。

人を傷つけない、人格を否定しないことで、日本に居たい、もしくは来たいと思わせる要因になると考える。

そんな相手の考えを想像する力をもっていこうよ、世界!って感じの叫びに私は聞こえる。

そんな前頭葉進化ムーヴメントな気がしてならないのだ。


消極的選択である感は否めないのだが、反対意見に同意できないので、であるからそういう立場をとった。


同性愛者が増えても、恋愛が多様性するだけで、現実に何の問題も発生しない

http://blogos.com/article/107799/

私自身が頭が固い50代(今でも固いけど)になった時、若者の文化を受け入れられなかったりするのかな、するのだろうな。


正直、実際に動いてみたらどういうことになるかはわからない箇所も多いだろう。

でも他者の利益を奪う行為(=犯罪)とは違う。

起こってもみないのに、ダメだダメだでは、なんかこう、楽しくない社会かな、と思った次第だ。

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